★ 【Invasion】皎白は紅に嗤う ★
<オープニング>

 めざめよ めざめよ
 われらがどうほう げっかのれいじん
 めざめよ めざめよ
 われらがはらから しんくのあくまよ
 はじめのほのおはキレツをつくり
 だいにのほのおはてにしたアカシ
 しんくニもえよ
 しんくにソめよ
 かんびなヒメイをひびかせよ
 はトおうのナをかんせしキミよ
 せつなのコウコツあたえておくれ
 たまゆらのケラクあじわいクルオウ

「これは宣戦布告だ。惑え、人間共」


     ワレラ ガ アルジ ノ イ ノ ママ   ニ



 ◆ ◆ ◆

 アズマ山に黄金の城が現れてから、セイリオスとハリスは銀幕市を走り回っていた。
 黄金の城が現れた時。天まで立ち上がった炎が一瞬にして消えたかと思うと、夜を纏った空よりも黒いものが、銀幕市の空を覆った。それは空を覆った夥しさよりも静かに、銀幕市に滑り込んだのだ。
 ──そう、それはその左手に漆黒の呪印を刻み込んだ。
 それから休むことなく、二人は駆け回っていたのだ。痣に……悪魔に憑かれた人々から、悪魔を落とす為に。悪魔自体の力は強くない。しかし、その数が多すぎた。
「くそ、落としても落としてもキリがねぇ」
 セイリオスは毒突きながら、黒い悪魔を閉じ込めた炎を握り潰した。
 悪魔を落とされ呆然としている人間を放って置くわけにも行かず、セイリオスは飴に加工したハリスの皮をやる。どういうわけだか、奴の皮には精神を穏やかにさせる作用があるらしい。そうしてやりながら、セイリオスは対策課の職員に連絡をし、彼らが来るのを待った。ハリスならもっとうまくやれるだろうが、セイリオスにはこれが精一杯だった。しかしそれでも、憑かれた者が市役所員に連れられて行くのを確認する事は、今までの彼からはまるで想像も付かない事だった。だからセイリオスは、そんな自分に笑った。
「はーい恐くないー、怖くないー、こわくないよー。ねー?」
 ハリスは子供を抱き上げて、よしよしとあやしていた。
 どうにも自分の姿は、いかにも映画から出てきましたよ、という姿なので怖がらせてしまうらしい。愛らしい瞳やふさふさの耳や尻尾があるわけでもなく、仕方がないので普段は冷温である体温を上昇させる。ゆらゆらと揺するのがいいのか、暖かな体温がいいのか、そうして少し仲良くなれた頃にアルディラが飴に加工した自分の皮をやった。子供達は飴だと思っているから、それは喜んでくれる。しかしそれの本当の力は、体の中の毒……悪魔を排除することだ。
「こんなところに来てまで、これと向かい合わなきゃいけなくなるなんてねぇ」
「なぁに?」
 ぽつりと呟いた言葉に、子供はきょとりと顔を上げた。ハリスは「なんでもないよー」と笑って、高い高いをした。

 先日の捜索で分かった「エルドラド」という名らしい城の主を知る為、対策課はシャガールを探し続けていた。もちろん、映画も見つけていた。
 『約束の日』という全4作品からなるシリーズ映画である。4つの作品はそれぞれに時間軸が異なるが、すべて同じ世界である。一作目は「異世界に召喚された少年」の話であるが、実はその異世界というのは、遥か遠い過去という設定である。そしてその一作目にシャガールたち【アルラキス】が、四作目に黄金の城の主「悪魔エルドラド」が登場する。四作目の副題を「楽園を行け」という。
「これも、ティターン神族の一手でしょうか」
 突如として現れたムービーキラーの群れ。突然にそれが発生するとはどうにも思えず、ため息混じりに呟いた。そんな植村の頭の上から、声が降ってきた。
「それはない」
 突然の声に顔を上げると、植村はまるで餅を喉に詰まらせたかのような顔をした。そこに並んでいたのは、白銀のイカロスと黄金のミダスだったのだ。
「もしも彼奴等の仕業ならば、早期に私が気付くはず」
『かの場所は、幾分か稀薄であるが、以前の山麓の『穴』に近い歪みがある』
 植村はハッと以前に灰田汐が言っていた事を思い出す。
 確か東博士からの報告だったと思う。あの『穴』に限らず、マイナスの魔法エネルギーは銀幕市に偏在している。だから、『穴』にかかわる・かかわらないに限らず、原理的には、すべてのムービースターが、キラー化する可能性がいつでもある、と。
 ならば、アズマ山と仮名されたあの山に多く発生したムービーキラーは、その「偏在するマイナスの魔法エネルギー」によるものなのか。
 植村が考え込むと、二人はどうやら彼がティターン神族とは別のものだと認識したのを感じたか、いつの間にか音もなく対策課からいなくなっていた。

 ◆ ◆ ◆

 そうして一週間以上が経った頃。対策課の扉が開いて、植村は思わず腰を上げた。
「シャガールさん!」
 ずっと連絡が取れなかった、【アルラキス】の頭シャガールがそこに立っていた。
「捜していたんですよ。アルディラさん達に聞いても知らないと言うし」
 それにシャガールは力なく笑った。
「ごめん、色々と調べていてね。でも、セリスたちが動いてるだろう?」
 電話が鳴った。それに飛び付いた職員が、短い受け答えをしてコートを引っ掴む。
「セイリオスさんから連絡がありました! 商店街まで行ってきます!」
「気をつけて、お願いします」
 植村は答えて、職員が小さく頷いて行くのを見送った。それからシャガールに向き直る。
「ええ。とても助かっています」
 シャガールは微かに微笑んだ。植村はソファを指し、座るよう促す。
「それで、調べていた事というのは?」
「ああ。俺たちの映画についてだよ」
 口調はいつもと同じだが、その顔は硬く強張っている。植村はただ耳を傾けた。
 シャガールが語ったのは、先日に自分が調べた映画内容とほぼ一致していた。しかし、思いも寄らなかったのは。
「悪魔エルドラドは、二つの作品に出ているんだ」
 植村は腰を浮かせた。それに、シャガールは唇を引き結び、そうして口を開く。
「映画じゃ分かり難かったけど、あの貪欲な国王の後ろにいたのは間違いなく、エルドラドだよ」
 『約束の日』というシリーズは、なんらかの約束を主人公が果たしていく物語である。
 それが幸いな約束であろうと、なかろうと。
 一作目では、約束は果たされなかった。
 だから、四作目は生まれた。
「エルドラドは、『変わらない悪』だ」
「変わらない悪……ですか」
 鸚鵡返しにすると、シャガールは頷き、どこか切なそうに笑った。
「エルドラドって、『楽園』って意味なんだってね。俺たちの世界では、ただ悪魔の名前だった。こっちに来て、それを知って……なんて皮肉だろうと思ったよ」
 瑠璃色の瞳が伏せられる。植村はなんと言えばいいのか、わからなかった。だからシャガールが再び顔を上げるまで、じっと黙っていた。
「俺が今日来たのは、エルドラドの城を攻める為じゃない。それよりも先に、やらなきゃいけない事が出来てしまったから」
 植村は姿勢を正す。
「悪魔エルドラド、そのの右腕。彼奴が動いているのを見つけたからだ。協力して欲しい」
 植村は瞬いた。それに、シャガールは小さく笑う。
 彼奴らの事なら、よく知っていると。
「銀幕市は不思議な魔法が働いてるからちょっと分かり難かったけど……この目で確かめたから、間違いない」
 強い目眩と頭痛を覚えながら、シャガールはそこに辿り着いた。太陽が空に輝いているのに、冬の青空が広がっているのに、なぜだろう、奴らの周りは灰色だった。
 そして目が合った。彼奴と。
 彼奴は、まるでせせら笑うように言った。
 貴方おヒトリでわたしとタタカウおつもリですカ?
 シャガールは笑った。
 まさか。
 そうして彼奴は、今度こそせせら笑った。
 ソウ、ちッポけなムシケラでスねぇ。そレでもシンカンなノデスか?
 途端に、高い高い悲鳴を上げた。それは自分の悲鳴なのか、彼奴の悲鳴なのか、それとももっと別のものの悲鳴なのか。わからないままに目の前に見えるのものをがむしゃらに引き裂いた。今度こそ、自分が叫んだ。高い悲鳴はやがて哄笑に変わり。その哄笑で、気が付いた。そして目の前には、まるで腐った果実のような巨大な怪物──ハングリーモンスター!
  シャガールは駆けた。唇を噛みしめ、哄笑を背にしながら、駆けた。振り返る余裕は、なかった。これ程までに自分が臆病だとも、思わなかった。
 シャガールは唇を噛む。胸のペンダントを強く握った手が震えているのを、植村は見ないふりをした。
「幻覚、ですか。それと……」
 続きは口に出せなかった。シャガールは力なく笑う。
「幻覚ね、似たようなものかな。恐ろしく現実的だったけど。……は、情けないや」
 目の前に突きつけられたのは、自分が最も恐ろしいと感じた、あの時。
 あれは、自分が最も後悔した時かもしれない。
「俺の勝手で悪いんだけど、セリスやハリィに行かせるわけにはいかない。アルディーには、ベラについてもらっているし……みんなには、辛い思いをさせるかもしれないけど」
 瑠璃の瞳が揺らぐ。
 植村はいつだったか、シャガールのこんな目を見た事があると思った。
 そうだ、あれは、神獣の森が現れたとき──…
「ごめん。だけど、頼む。力を貸してほしい」
 頭を下げると銀の髪がはらりと肩から落ちた。
「その……彼奴の名前は?」
 その銀があまりに痛くて、植村は自分でも何を言っているんだろうという質問を投げかける。シャガールはゆるゆると頭を上げ、瑠璃色の瞳を真っ直ぐに向けた。
「悪魔・ハオウ」

種別名シナリオ 管理番号928
クリエイター木原雨月(wdcr8267)
クリエイターコメントこんばんは。当シナリオをご覧頂き、誠にありがとうございます。
木原雨月です。

【Invasion】は、全三部からなるシナリオ群です。
当方の事情により、日程の設定が(木原にとっては)複雑になっております。
詳しい事は映画館の壁に貼り付けておりますので、ご参加をお考えの方はどうかそちらも併せてご覧頂きますよう、お願い申し上げます。
また、この三部作は公開時期がずれているとはいえ、時間軸はほぼ同じとなりますので、同一PC様による複数のシナリオへのご参加は、申し訳ありませんがご遠慮くださいますよう、重ねてお願い申し上げます。

 * * *

【Invasion】皎白は紅に嗤う
こちらでは、シャガールと共に「悪魔ハオウ」討伐へと向かって戴く事になります。
しかし向かう先には、悪魔の首領エルドラドの右腕のみならず、ハングリーモンスターもいる様子。どうぞ、お気を付けください。
プレイング如何によっては、ハオウを逃す事になるなどの可能性があります。
なお、ハオウ及びハングリーモンスターとは激しく厳しい戦いになりますので、怪我をしたくない方のご参加はお勧めできません。悪しからずご了承ください。

●補足
○悪魔ハオウは、幻覚を駆使するが、何らかのきっかけでその幻覚から現実に戻る事が出来るし、気をしっかり持っていれば、多分大丈夫である。
○ハングリーモンスターは、三体。
○場所はダウンタウン北辺り(気になる方がいるかな、と思いまして)。

●アンケート
思い出したくない・忘れたい出来事、またそれに対する思いなどがあれば、よろしければお聞かせください。何かの参考にさせていただきます。※こちらは任意です。なくても問題ありません。

それでは、皆様のご参加を心よりお待ちしております。
※当方の事情により、制作日数を多く取らせていただいております。あしからずご了承くださいますよう、お願い申し上げます。

参加者
コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
エンリオウ・イーブンシェン(cuma6030) ムービースター 男 28歳 魔法騎士
薄野 鎮(ccan6559) ムービーファン 男 21歳 大学生
ファレル・クロス(czcs1395) ムービースター 男 21歳 特殊能力者
熊谷 小鳥(cbvp7058) ムービーファン 男 20歳 大学生
ソルファ(cyhp6009) ムービースター 男 19歳 気まぐれな助っ人
<ノベル>

「悪魔・ハオウ」
 その音がやけに耳に響いて、エンリオウ・イーブンシェンは迷わず足を向けた。気配に振り返ったシャガールは、その瑠璃色の瞳で密色の瞳を見上げた。
「んん。ハオウの音が悪魔として挙がっていたから、とても驚いたのだけど」
 エンリオウの言葉に、シャガールはしばし瞑目する。それから、ああ、と切なそうに苦笑した。
「セリスが届けた手紙で、行ってくれた人だね。イーブンシェンくん、だっけ」
「うん。……んん、よければエンリと呼んでくれるかな?」
 ふわりとした笑みに、シャガールは思わず笑った。
「そう、エンリか。わかったよ」
 それに満足そうに微笑んで、エンリオウは何かを思い出すようにふと視線を宙に投げた。
「……覇王くんを助けられるものなら、助けたかったんだけど」
 穏やかな笑みの中に、微かな悔恨の情を感じて、シャガールはただ目を伏せた。エンリオウは微笑む。
「わたしはこの依頼を受けたいと思うけど、どうだろう」
「あれと関わったなら……キミには、辛い」
「構わないよ。わたしが進んで、望んでいるんだから」
 シャガールは密色の瞳を申し訳なさそうに見上げる。けれどその柔らかな笑みが確かな決意に満ちていて、シャガールは目を伏せ、それから真っ直ぐにその瞳を見た。
「……わかった。よろしく、頼むよ」
「僕らも行っていいかな」
 声に振り返ると、そこには線の細い青年とがっしりとした体つきの青年とが立っていた。それぞれ肩にミッドナイトとサニーデイのバッキーを乗せている。
「僕は薄野鎮と言います。こちらは大学の後輩で、熊谷小鳥」
「ソルファ」
 短く名乗ったのは、蜥蜴の尻尾を生やした青い髪と青い瞳を持つ青年だ。市役所の前で会いまして、と鎮。
「ハングリーモンスターもいるそうですね。なら、俺たちはきっと役に立ちます」
 小鳥が言って、ムービーファンの二人はその手にスチルショットとディレクターズカッターを示す。ソルファは黙って、その獲物を軽く持ち上げてみせた。散弾系の大口径の大型銃と、腰には大小の日本刀が一振りずつ。
 シャガールは微かに眼を細めた。彼は盗賊だ、一目見ただけで、その人物がどれ程の力量かを計る事が出来る。やがて瞑目し、そして三人を順に見た。
「辛い思いをさせるかもしれない。でも、……頼む」
 鎮と小鳥、ソルファは力強く頷いてみせた。

 もう少し待とうと言うと、植村が対策課の待合室を貸してくれた。五人は何か会話をする訳でもなく、ただそれぞれの思考を巡らす事しばらく、その扉を控えめに叩く音がした。シャガールが顔を上げると、一人の少女と青年に、シャガールは思わず瞬いた。
「あなたが、シャガールさんですか?」
 少女は花の咲くような笑みを浮かべて、小首を傾げた。
「そうだよ。君は?」
 シャガールは笑んで答える。続く言葉は敢えて言わなかったのだが、少女はあっさりと口を開いた。
「コレットって言います。あの、出されている依頼……私も受けます」
「危険だよ」
 間髪を入れずに言ったのは、とてもこの依頼に耐えうる人物には見えなかったからである。肩にピュアスノーのバッキーがいるから、ムービーファンである事はわかる。だが、それ以外は何か運動をしているわけでもない、至って普通の一般人だとしか見受けられなかった。
 コレットは困ったように笑う。
「それは、わかってます。でも、私にはトトがいますし、……あ、ハングリーモンスターさんにはトトじゃ駄目ですけれど、気をそらす事ぐらいならできるわ。ハオウさんに対しては私に出来ることって言ったら、足手纏いにならないようにする事と、幻覚からみんなを早く助けることだと思うの」
「ハオウを甘く見ているなら、本当にやめた方が良い。その」
 シャガールはコレットのポケットをちろりと見やる。コレットはびくりとして、そのポケットの中のものをぎゅうと握った。
「その物騒なもの程度でどうにかなると思っているなら。……キミの為にも」
 シャガールが美しい瑠璃の瞳を歪めるのを見て、コレットは「でも」と言い募る。すると後ろで黙っていた青年が口を開いた。瑠璃の瞳が紫の瞳とぶつかる。
「ファレル・クロス、と申します。コレットさんとは、何度か依頼を同じくしています。それらの中には決して安全とは言えないものもありましたが、彼女のお陰で助かった事もあります」
 シャガールはそれでも納得はできないと言うように、柳眉を寄せた。はっきり言って、守ってやる余裕など、ない。それを悟って、ならば、とファレルは言った。
「彼女は、私が守ります。ハングリーモンスターはムービースターを襲います。頼まなくても此方に来てくださる事でしょう」
 コレットが驚いたようにその顔を見上げる。ファレルは真っ直ぐにシャガールを見る。
「……僕は、気を回せないよ」
「承知してます。その上で、言っています」
 しばらく沈黙が続いて。
 シャガールは長い息を吐いた。
「せめてファングッズだっけ、それを持ってくれないかな。それから先はキミに任せるよ、ファレルくん」
 厳しい瑠璃の瞳に、ファレルは拳を握り、奥歯を噛みしめる事でどうにか平静を装う事に成功した。背中には冷たい汗が流れ、少しでも気を抜けば腰を抜かしてしまいそうだ。コレットの緑の瞳が自分を見上げている。ファレルは目を閉じ、息を吐き吸って、目を開いた。
「はい」

  ◆

 対策課を出て、六人はシャガールの案内でそこへ向かう。
 空は薄く雲を刷いた冬晴れで、今この時、ムービーキラーがどこかにいるのだとはとても思えなかった。あまりに心境と状況が食い違いすぎている。頭の隅でそんな事を思っていると、急に怖気が走って、鎮は柳眉を寄せた。
「先輩」
 小鳥が言って、鎮はシャガールの肩越しに前方を見やった。
 そこは、灰色の世界。灰を撒き散らしたような薄靄の向こうに、見えない壁に突撃し続けるスライムのようなゲル状のもの。そして、薄い膜の中で冷笑する一人の女性。
 純白のドレス、纏め上げた漆黒の髪は一房だけを流し、青いガラス玉のような瞳は半月に歪められている。
「覇王殿」
 エンリオウが呟く。瞳の色は違うが、その女性は確かにあの時、あの黄金塔の大時計の下で夜会を開き自分たちを招いた、覇王その人であった。
 エンリオウの呟きに、女はすうと眼を細める。
「まア、エンリさま……ふフ、まサか二度と会おうトハ思いマせんでシタよ」
 ハオウは笑った。エンリオウは眉間に皺を寄せる。あの時は、もっとふうわりと笑んでいたのに。今の、この禍々しさはなんだろう。あの、純白の原で微笑んでいた彼女は。
「何か聞キたそうデすね? 今この邪魔なケッカイがあるウちなラ、お聞きしまスよ」
 ハオウは艶然と笑む。エンリオウは眉間に皺を寄せたまま、密色の瞳を向ける。
「……あの時の何が、今この時の原因になっているんだろう」
 ハオウは鈴を転がすような声で笑った。
「相変わラず面白い方デスね、エンリさま」
 くすくすと笑み、美しい所作で腰掛けていた瓦礫から立ち上がる。すと牆壁に手をやれば、それは火花を散らして突き破られた。途端、黒々とした禍々しさがまるで突風のように吹き付ける。生臭い風が吹き、ハングリーモンスターを閉じ込めた結界に亀裂が走る。
「さァ、ワレらがシンカンがもどッテきたことデすし、つづキをシまショウ」

 バシ。

「構えて!」
 シャガールの声は果たして間に合ったのか。吹き飛ばされそうな程の突風が突き抜けて、ハングリーモンスターと悪魔・ハオウは自由を得た。ハングリーモンスターが奇声を上げて突っ込んでくる。とても二メートルを越す巨体を引き摺っているとは思えぬその速さに、しかし鎮、小鳥、ファレルの三人は応えた。スチルショットが唸り、ディレクターズカッターを振り抜いた。
「ハングリーモンスターは任せてください!」
 何かに耐えるようにその顔を歪めながら、しかしその目に揺らぎはなかった。
 ファレルはロケーションエリアを展開する。灰色の世界はハオウの影響か変わらなかったが、荒れ地のようなそこは近未来的高層ビルが現れる。
「三十分。これで、ハングリーモンスターは片付けてみせます」
 ちろりとコレットを見れば、トトとスチルショットを抱きしめ、高層ビルの影にしっかりと隠れている。それに笑み、しかしそれは一瞬の隙になる。コレットの大きな目が見開かれた。
「ファレルさん!」
 叫びは悲鳴となった。ファレルはハングリーモンスターに突進され、そのまま全面ガラス張りのビルへ突っ込む。目の前にカメラのフラッシュが絶え間なく浴びせられるように感じ、奇妙な浮遊感の後には背中に鋭く熱い痛みが走って一瞬目の前が暗くなる。しかし気を失う事は許されず、すぐに迸る激痛で光が戻ってきた。喉は焼けるように熱く、粘る液体がせり上がり、吐き出したはいいが息が上手く吸えない。ゲル状のハングリーモンスターはぎりぎりとファレルの細い体を締め付けてくる。その圧迫感に、肋がミシミシと音を立てた。床に散らばったガラスの破片に、苦悶に顔を歪めたファレルが映る。その姿に自嘲し、ファレルは今にも吹き飛んでしまいそうな思考を掻き集めた。
 一方。
 エンリオウ、ソルファ、シャガールは動かなかった。動けなかった、というのが正しい。その重圧は凄まじく、瞬きをした瞬間に首と胴が離れているのではないかという程の、凄まじい殺気だった。立っているだけでやっとだ。奥歯を噛み締め、腹に力を入れる。重心を落とし、いつでも動けるよう備える。それぐらいしか、出来なかった。ハオウは優雅な立ち姿のまま、艶然と笑む。
「こなイのですカ?」
 嘲るように笑う彼女に、やはりエンリオウは柳眉を寄せた。更に腹に力を入れ、短く息を吐く。次にはその剣を引き抜き、ハオウの眼前に現れる。ハオウはゆるりとした笑みで、それを迎えた。
 高い金属音。ハオウもまた、どこから取り出したのかレイピアのような細い剣で、軽々とエンリオウの剣撃を受け止めた。ちり、と微かに火花が散って、エンリオウはそこから飛び退いた。すと武骨な古びた長剣を、真っ直ぐにハオウに向ける。
「……後悔を取り返しに。そして、あの時何が起こっていたのか、僕はその真実が欲しい」
 ハオウは愉快そうに深紅の唇を歪めて、しゃらりとその剣を構えた。細いその剣は刺突に向く。フェンシングのような構えは、純白のドレスも相まってか、無機質な高層ビル群に囲まれた灰色の世界で、禍々しい気配を纏いながらもなお美しかった。
 一度振り切った重圧は、二度目は僅かに軽く、エンリオウは魔剣エンディーネを右手に構え、横に薙ぐ。すうと水面を滑るように体を引いたハオウに、すかさず左手の指を打ち鳴らした。途端、その左手から稲妻が迸り、ハオウが笑みながら目を見開くのを見た。砂塵がもうもうと立ち上り、どこ、と視線を巡らせると、背後から銃の連射する音。ファレルのショットガンだ。そして頭上に響く轟音を聞いて、弾けるように顔を上げた。ひらり、純白が舞い。細い銀の燦めきを見た。目か。思った時には、シャガールの流星錘がそれを絡め取り、エンリオウは転がるようにその場を離れた。コンクリートの破片が八方に飛び、思わず顔を庇う。薄く開けた目の前には。
 ハオウ。
「っ!」
 咄嗟に左手を翻し、その迫り来る青いガラス玉の眼前で稲光が炸裂する。その一瞬の隙にエンリオウは剣撃を繰り出し、その細い体を弾き飛ばした。
「大丈夫」
 シャガールの切迫した声。エンリオウは、うん、と短く応える。くすくすと笑むハオウの声が、薄い靄の向こうから聞こえる。ソルファはショットガンを構えた。青い尻尾は軽く持ち上がり警戒を露わにしている。
 生臭い風が一陣通り過ぎ。
 始めに飛び出しのはシャガールだった。流星錘が唸りを上げて砂塵の中に吸い込まれていく。それを追って、エンリオウが駆けた。砂塵に突き当たる前に白銀の縄がピンと張り詰め、細い体を引き寄せた。その顔は楽しげに笑み。白いドレスは墨を落としたように黒く汚れていた。エンリオウは眉を顰める。両腕を巻き込んで絡め取られた悪魔は、その腹に魔剣ウンディーネを飲み込んだ。密色の瞳が険しくなる。
「……あの時、きみには何が起こっていたのかな」
 ハオウは血色の唇を歪める。
「こコニわたしをウえこみ、みちトナった。ソのたメノ、やかイでシた。……あのトキ、アノしんぷガとめナケれば、エンリ殿がひヲけサナケれば、もットはやくアノカタはコちらへこラレましタノに」
 密色の瞳が瞬き、ウンディーネが震える。
 瞬間。
 エンリオウは苦悶に顔を歪めた。魔法を発動する暇もなかった。その腹に、深々と細い剣が突き刺さり。青いガラス玉の瞳を見やれば、艶然とした笑みでその手首を返した。低い呻きが漏れる。頭上からショットガンの轟音、ハオウは見た目にはゆるりとした動作で腹から強引に剣を引き抜く。口の中に鉄の味が広がった。それと同時に、ウンディーネもまたハオウから離れ、そこから漆黒の闇が溢れ出た。遠くに低く高く呻き声が聞こえて、青い蜥蜴の尻尾がぼとりと落ちたのを見て。エンリオウの視界は暗闇に包まれる。

 ハングリーモンスターの怒号が轟く。鎮と小鳥は今にも崩れ落ちそうな膝を突っ張った。
 エンリオウ達がハオウに集中していられたのは、このムービーファンである二人が二体のハングリーモンスターを相手に奮闘したからである。
 しかし、スチルショットは一発撃つ毎に10分間のロスを強いられ、ディレクターズカッターはチャージに1分を要し、その刃は5分しか持たない。二人はムービーファンであるが故に、それらの効果に影響を受けなかったが、二人で二体を相手にするのは生半可なものではなかった。満身創痍。その言葉が、ぴたりと当てはまる。
 やはり誰かに応援を頼んでおけば良かったか。
 小鳥は微かにそう思う。だが、すぐにそれを打ち消した。弱音を吐くな。彼らはムービースターだ。だから、アレと戦わせるのは負担が大きいだろうと、鎮と二人で相手をすると決めたのだ。その為に、展開されたロケーションエリアはある意味で都合がよく、ビルの中へと飛び込んだ。小鳥は柔道、剣道、空手、合気道、ボクシングなど、様々な武道や格闘技を修め、人よりも優れた運動神経を持っていたし、戦闘に向く恵まれた体つきでもある。鎮は女性のように線が細いけれど、実は引き締められた体を持つ事を、小鳥はよく知っていた。
 だから、二人なら、大丈夫だろうと。
 実際、二人の息はぴったりだった。小鳥が前衛として立ち回り、鎮がそれを後援する。一歩間違えれば互いが互いを蹴り飛ばしてしまうところも、絶妙なタイミングでそれは見事に決まった。
 唯一の難点と言えば、ハングリーモンスターには物理的攻撃がほぼ皆無と言っていい程に通用しない事である。半信半疑で持ってきたファングッズはどうやらソレらに有効で、それは確実な手傷を負わせると同時に、ソレに対して全く攻撃手段を失った。
 しかしそれでも、二人の体術はハングリーモンスターの気を自分たちに繋ぎ合わせるには十分であった。ハングリーモンスターは苛立ち、そのゲル状の巨体を振るわせ吼える。それはまさしく二人の狙い通りで。
 けれど、それと同時に、哀しさが押し迫った。
 二人はムービーファンである。夢見る力を持っていると神に認められ、バッキーを授けられた者。そして二人の肩には、ミッドナイトとサニーデイのバッキー。その二匹は可愛がられ、それぞれに雨天、ヨシツネと名付けられている。今は肩にしがみつき、同胞を倒すべく銀幕市に存在する魔法エネルギーを二人が握るファングッズへと送り続けている。
 遣る瀬無かった。
 しかしそれでも二人がソレと向き合ったのは。
 偏に彼らが、ムービーファンだからだ。
 だから自分たちが。
 鎮は一つ大きく深呼吸し、ひび割れた眼鏡越しにゲル状の巨体を見つめた。10分。
「……行くよ、雨天」
 ミッドナイトのバッキーは、返事の代わりにその頭を鎮の頬に寄せた。恐らく雨天も疲れているだろう。我慢強いそれは、鎮の意志によく添った。鎮は少しだけ笑む。
 スチルショットを肩に担ぐ。猟銃の格好をしたスチルショットは、シリンダーにあたる部分からコードが伸びている。そのコードの先端に吸盤が取り付けられており、それをバッキーに繋げる事でエネルギー弾が発射される。その射程距離は、10メートル。
「小鳥」
「っス。やるぞ、ヨシツネ」
 鎮より頭一つ分は大きい小鳥の肩では、人懐っこいサニーデイは一回りも小さく見える。柄の中から伸びたコードを外し、柄に収納する。1分のチャージをしておけば、いつでも刃を出せるからだ。ヨシツネと呼ばれ、どうやらそれをわかっているらしいそれは、飼育者に似たか真っ直ぐな目をかつての同胞へと向けている。
 二人が地を蹴ったのは、ほぼ同時。濁ったボイルドエッグとピーチのハングリーモンスターは、奇声を上げて突進してくる。やはりそのスピードは巨体を引き摺っているとは思えず、時が経つにつれて凶暴にすらなっているように感じる。それは、飢えた狼に似て。
 鎮はハングリーモンスターというものについて、対策課にあった資料を思い出す。
 ハングリーモンスターとは、バッキーが長期間、飢餓状態におかれた場合に突然変異したものだ。バッキーが依頼にあまり顔を出さないムービーファンの元にいてもその変異に見舞われないのは、飼い主の夢を自然と与えられているからである。それがバッキーの食事である。そのバッキーが長期間飢餓状態に置かれるという事に、鎮は切なくて僅かに目を伏せる。
 距離はぐんと縮まって。絡まりそうになる足を必死に踏ん張って駆け抜ける。ハングリーモンスターまで、あと20メートル。スチルショットを肩に構え、短く息を吐いた。小鳥はディレクターズカッターを握り締める。ハングリーモンスターまで、あと10メートル。
 引き金を引いた。
 銃口から圧縮されたエネルギー弾が発射され、前を走っていた濁ったボイルドエッグの腹で爆発した。その後ろから濁ったピーチのハングリーモンスターが、マグマが流れ出るようにそれを乗り越えて迫る。小鳥はディレクターズカッターの刃を閃かせ、胴を薙ぎ払う。手に、重い衝撃。耳に轟く奇声と焦げ付く臭いに、眉根を寄せる。左足を軸に回転し、その背後をまた斬り払う。ハングリーモンスターは猛る。目と思しき暗い光が鎮と合う。
「鎮先輩!」
 叫ぶ。同時に、ハングリーモンスターは眼前の鎮を押し潰した。その圧倒的な質量に、鎮は為す術もなく膝を折った。ああ、ムービーファンで良かった。そんな事を頭の隅で思い、思わず口端を持ち上げる。小鳥の声が遠くに聞こえる。雨天。肩から離れなかったのか。必死にしがみつくその姿に、鎮の眼鏡の奥が揺れる。
「先輩!」
 小鳥は叫ぶ。濁ったピーチの向こうに、薄く笑む鎮が見える。カッと頭に血が上った。腹の底から雄叫びを上げて、その巨体を薙ぎ払う。
 ビシ。
 唐突にそれはひび割れて。小鳥がもう一度腕を振れば、それはまるで解けるように消えて無くなった。

 エンリオウは暗闇の中にいた。
 おうおうと哭く風の音が耳に響く。
 それはとても現実味がなく、それでいてどこか懐かしい。
『──還りたい』
 突然の声に、エンリオウは密色の瞳を見開いた。何故。頭を過ぎったのは、その二文字。
 おうおうと風が哭く。その間隙に、その身に封じた魔物の叫びが聞こえる。
『還りたい、還りたい、還りたい』
 戻りたい、あの美しい世界へ。
 還りたい、あの優しい世界へ。
『私は還りたいだけなのに、どうして還れないの』
 その叫びは絶叫に似て、怨嗟となって轟く。
 還れない。
 還れない。
 許さない。
 こんな世界に引き摺り出した奴ら全員。
 聞け。
 聞け。
 見よ。
 我が姿。
 我が怒り。
 迅雷。
 雷閃。
 ──おうおうと哭く、声。
 エンリオウは美しい密色の瞳を悲しげに伏せた。それは、今はほとんど彼と同化した、魔物。
 悔やんでも悔やんでも悔やみきれない、それは。
『還りたい、還りたい、還りたい』
 魔物の、記憶。
 今のソイツは、「願いを忘れている」。もしくは、「思い出していない」。
 けれど、それは確かにエンリオウの思い出で。
 目の前には、あの時の。
 エンリオウは柳眉を寄せ、悲しげに微笑む。
 ああ、それでも。
「……思い出は、すべて僕の糧だから」
 暗闇が揺らぐ。
 目の前のソレが、あの時と同じように自分を見下ろしている。
「悔やむ事はある。でも……忘れたりしない」
 ソレが揺らぐ。
 まるで、泣いているように。
 ──ああ、なんて残酷な優しさなのか。
 それは、誰が囁いた言葉なのだろう。
 ガラスの割れる音がして、エンリオウの視界は再び灰色の世界を映し出した。鈍い痛みが腹部を襲い、刺された事を思い出す。
「……アキレギアめ」
 苦々しく呟くが、ハオウの目はまだ笑っていた。
「いやぁああああああっっ!!」
 甲高い、少女特有の悲鳴が上がったのはその時だった。

 ファレルは高い悲鳴に紫の瞳を見開く。
 この声は。
 背中は熱く、目は霞み、立っているのがやっと。しかしその声に、ファレルは走った。遮るは、濁ったラベンダーのハングリーモンスター。無効化、という程ではないが、ソレはファレルの能力──物質の分子を自由に組み替える──を、まるで底なしの胃袋に納めるように飲み込んだ。以前に戦ったハングリーモンスターとは、底が違った。
 しかし、今はそんな事を考えている場合ではない。
 叫んでいる。その声は、恐怖に染まっている。覚悟なんて、決まっていない。けれど、あの花のような微笑みを守りたいと思ったのは、他ならぬ自分。
 空間が歪む。ロケーションエリアの効果が切れるのだ。
 ファレルは奥歯を噛み締め、精神を研ぎ澄ませる。地が罅割れていく。それはファレルの操る電子分子が激しく振動しているせいだ。電子が光を伴って弾ける。紫の瞳が燃える。途端、ハングリーモンスターは感電したかのように体を震わせ、絶叫する。ファレルの手は止まらない。ソレの周囲の電気双極子をマイクロ振動させる。その振動によって加熱された空気に、ハングリーモンスターは聞くに堪えない絶叫を上げ、ボロボロと崩れ消えて無くなった。途端、ビル群は消え去り元の荒れ地が姿を現した。
 ファレルは駆けた。コレットの絶叫が続く。
 駆けて、駆けて、そこに辿り着いた時、ファレルは絶句した。
 コレットは腕を振り上げる。その手に握られたそれは、鈍い銀色の光を弾き。振り下ろされた先は、コレットの細く白い手の甲。今はもう鮮血に染まり、コレットは狂ったように泣き叫びながら、ナイフを握り締めた手を振り下ろしている。
「コレットさん!」
「いやぁあああっ! ごめんなさい、ごめんなさい、ぶたないで、良い子にするからぶたないで!」
 振り上げた手を止めようとして、しかしその手はコレットに届く前に、コレットの手によって傷つけられる。コレットは叫ぶ。
「やめてぇえっ、許して! あああ、良い子にする、良い子にするから! 助けてぇえええっ!!」
「コレットさん!」
 ファレルはナイフを握った手を掴み、コレットを抱きしめた。シャガールが言っていたのは、これか。ファレルは唇を噛む。どうして、彼女の傍で、守ってやれなかったのか。コレットがポケットにナイフを忍ばせていた事に、なぜ気付かなかったのか。彼女がトトと名付け、可愛がっていたピュアスノーのバッキーは、振り飛ばされ目を回している。コレットは許してと、助けてと、壊れた人形のように繰り返す。ファレルは自分の不甲斐なさにうち拉がれた。覚悟なんか、出来ていない。けれど、この人の微笑みを守りたいと決めたのに。
「……もう、大丈夫です」
 ファレルは腕に力を込めた。ぴくりと細い肩が震えを止める。ファレルは体を離し、自分の服を引き裂くとコレットの細い手首を強く縛った。半狂乱の中振り下ろされた刃は、容赦なくその手を貫通していた。脇を締めるようにまた強く縛り、ファレルはその手をやはり引き裂いた服で強く巻く。気を失わないでいるのは、幻覚の名残なのか。いっそ気を失った方が、楽であろうに、それすらも許さないというのか。
「……ご自分の名前を、言えますか」
 緑の瞳がまるで焦点が合っていないかのように揺れ。色を無くした唇が、わずかに震える。
「…レット……コレット・アイロニー」
「そう、あなたはコレット・アイロニーさんです」
 ファレルは少し安堵する。彼女にどんな幻覚が見えたかはわからないが、とにかく彼女はこちらへ戻ったのだ。
「……ファレル、さ………ぅ」
 コレットが蹲る。問題はその傷だった。ファレルは構わない。痛くないと言えば嘘になるが、そうした世界で生きてきた。しかし、コレットはムービーファンなのだ。一刻も早く病院で手当てを受けなければ、危険だ。
 その、背中で。
 哄笑が響いた。

 ソルファは眼前で親友が倒れていく様を見ていた。
 それは、荒廃した都市の中。
 雨が降っていた。
 相棒が怪我で動けず、自分が代わりに『彼』の相棒を務めていた。
 そして、『彼』を助ける為に走った自分は。
 『彼』を守ったが故に、親友であった彼を、殺された。
 あの時。
 何を選択するのが、最も正しかったのか。
 どうしたらあの時、……。
 それは、何度となく繰り返した自問。
 答えは、まだ出ていない。
 雨が降っていた。
 親友が、やけにスローモーションで倒れていく。
 水煙で曇った視界に、鮮血だけが色鮮やかだ。
 ソルファは目を反らした。
 ソルファは拳を握り締める。
 あの時、どうすれば良かったのか。
 まだ答えは出ていない。
 これは、「忘れてはいけない」が「思い出したくない」出来事。
 思い出したくないと強く思う程に、その動きは速度を緩め、まるでその姿を見せつけるようだった。
 ──お前のせいだ。
 それは、誰の声だったろう。
 ソルファは瞑目する。
 これは、……起きてしまった事、だ。
 それは、確かに「あった」出来事だ。
 目を瞑っても、決してなくならない、「あった事」。
 ソルファは目を開く。
 ばちゃん。
 そんな音を立てて、親友は雨の中に倒れた。
 「思い出したくない」が「忘れてはいけない」出来事。
 起きてしまった、その事実は変わらない。
 苦しくて、悲しくて、今でも「あの時」と問いかけている。
 答えは、まだ出ていないけれど。
 だからこそ、目を反らさない。
 雨の景色が歪んで。
 親友が、笑ったように見えた。
 ガラスの砕け散る音がして、ソルファの視界に灰色の世界が映る。雨は、降っていない。切り離された尻尾が、荒れ地の中で微かに跳ねた。
「……アザミまデもがやブれたカ」
 ハオウの声。ソルファは否や腰に差した日本刀に手を掛け、走った。視界の端で、シャガールの流星錘が自分を追い越し、そのグズグズと崩れ落ちそうな白い腕を殴打した。白い腕からは黒い帯状のものが迸り、蠢く。青い瞳を鋭く光らせて、ソルファは居合い抜く。美しい銀が空気を斬り裂いてその胴を目指す。体を引いたハオウはしかし、その腹を引き裂かれ黒い蛇のようなものがそれを覆う。軽く腕を振ると、ソルファは後方に吹っ飛んだ。それをシャガールが受け止める。ちらりと顔を見上げれば、悲しげな瑠璃の瞳。
 瞬間、醜悪とも哀愁とも取れる絶叫が響き渡り。
 姿を見せたのは、鎮と小鳥。その向こうから、コレットを抱えたファレル。
 びょるびょるとハオウの腕と腹が黒く蠢いている。
 それは、ムービーキラーの証。
 ハオウは六人の顔を順に見回し、
 笑った。
「アのかタヲいマ、ひとリにすルワケニはいキマせん」
 ぴくりとシャガールが眼を細めた。ハオウは笑い、すと腕を上げる。
「シルしをアげまショウ、ワレらノシンカン」
 艶然と笑み、瑠璃の瞳が見開かれ。シャガールは倒れた。
「シャガ……っ!」
 ハオウがふわりと宙に浮く。エンリオウの剣撃とソルファのショットガンが唸った時にはもう、ハオウの姿はどこにも見えなかった。

 ──ドうゾ、オキヲつけテオカエりくだサイまセ──

 一際強い風が吹き、噎せるような甘い香り。
 エンリオウは密色の瞳を歪めた。
 拳を握り、それから柔和な笑みを取り戻す。
「……行こう。まずは病院へ行かなきゃねぇ」
 腹に受けた傷は、決して軽いものではないはずなのに、エンリオウは微笑む。鎮と小鳥が頷き、ファレルはコレットを抱いて急ぎ足に病院へと向かった。
 ソルファは、気を失ったシャガールを肩に担ぎ、しゃらりと落ちた銀のペンダントを見た。だらりと前に投げ出された手を見て、困惑に眉間に皺を寄せる。
 左の手の甲に、黒い痣。
 その痣の形は、シャガールのペンダントにそっくりであった。

クリエイターコメント大変お待たせ致しました。
木原雨月です。
残念ながらハオウは逃してしまいましたが、ハングリーモンスターの脅威は取り除かれました。ありがとうございます。
何かお気づきの点などございましたら、遠慮無くおっしゃってくださいませ。
この度はご参加、誠にありがとうございました。
公開日時2009-02-25(水) 19:20
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